院長から

KENZO、パリに死す

投稿日:2020年10月14日 更新日:

10月5日、朝いちばんのニュースに驚きました。パリ在住の日本人デザイナー高田賢三(81)が逝去、コロナウイルス感染症で入院中だったとのことでした。

「洋服は母親や近所のおばさんが縫ってくれた」という子どもも多かった’50年代、’60年代。やがて洋服は、単に「身体にまとうもの」から、お洒落な自分を表現する「ファッション」になり、専門学校の中でも洋裁学校やデザイン学校の人気は上昇の一途でした。今も才能あるデザイナーを輩出する文化服装学院が、1958年に初めて男子学生の入学を認め、洋裁の道に憧れていた高田賢三はその吉報を聞いて大学を中退し姫路から上京しました。この年の在学生からは、賢三の他にもコシノジュンコ、金子功、松田光弘ら著名なデザイナーが輩出され、のちに”花の九期生″と呼ばれました。賢三は卒業後パリに渡ると1970年にブティックを開き、その後は毎年コレクションを発表するようになり、後に続く日本人デザイナーの先駆けとなりました。

彼は子どもの頃から外で遊ぶことをせず、家の中で女の子の絵ばかり描いており、心配した母親が当時の担任の先生に相談すると「それでいいのです。好きなことをやらせましょう」とアドバイスを下さり、その先生も今の自分を作っている――と回想しています。

賢三が「KENZO」の経営からはなれたあとも、パリのデパートの殆どにはKENZOのテナントショップがありました。ワンフロア―の殆どに無地や無彩色の洋服が並ぶ空間に、文字通り「そこ」だけが「花の咲き乱れる」一画で、地元の人がKENZOの洋服を眺めたり手に取ったりするのを横目で見たとき感じた、同じ日本人としての内心の誇らしさは忘れることができません。単色使いやモノトーンが「シック、おしゃれ」と評価されることの多いフランスで、多色使いでトップスとボトムスの柄を変え、上着は花柄、スカートはチェック、というふうな、それまでのルールからすると非常識ともいえるデザインで、「KENZO」はモード界に新鮮な驚きとともに迎えられました。

やがてその作風は「色の魔術師」と呼ばれるようになりますが、底流に日本のキモノや漆や金箔の文化があったことは明らかです。フランス人のうちにも、「KENZO」をきっかけに日本に興味を持った人が実は沢山いると思われます。

この4月には「コロナ禍のパリから」と題した賢三本人の寄稿文が読売新聞に掲載され、その中で彼は「あらためて生きていく原点を見つめなおし(中略)新しいデザインやアートの未来を考えたい」と記しています。ニュースに流れる昨年の賢三の映像は、以前より「若くなった」ようにも見えて驚きましたが、今回の訃報に「年々若くなる不思議な人」と追悼した識者もあり、賢三の衰えることのなかった活力に勝手に励まされているわたしです。