常務(前院長)だより

春はすぐそこ?

投稿日:

新年も早やひと月を過ぎました。寒中お見舞い申し上げます。このコラムをお読み頂いている皆さま、本年もどうぞよろしくお願い致します。

まだ記憶に新しいのですが、令和5年は雪のない穏やかな正月を、家庭や職場で喜びあいました。我が家の家人は昨年の冬、自分が自宅の雪かきに費やした時間を分単位でメモに残していました。それによりますと、令和3年12月は530分、令和4年1月は290分、2月は130分なそうです。比較してこの冬は、12月が60分、1月が90分とのことで、「去年のことを思うととても楽」と話しています。

しかし1月25日、日本列島は「10年に一度の寒波」に見舞われ、関西の交通機関のマヒ、高速道路の渋滞、交通事故の多発があり、一般家庭ではかつてないほどの水道管の凍結、破裂が起きたそうです。尋常ならざるきびしい寒さに、明治35年1月24日の「八甲田山雪中行軍遭難事件」のことをコラムに書いた新聞がありました。

「これは明治35年(1902年1月)に日本陸軍の一師団が、厳寒地での対ロシア戦を想定した準備訓練であった。青森市街から八甲田山への雪中行軍の途中で、訓練参加者210名中199名が死亡したという、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故とされている(wikipedia:『八甲田山雪中行軍遭難事件』より」−−この行軍で生き残った人は11名。その中の一人の方のお孫さん(今は故人)にあたる方と出会ったことがあります。何かの会合の折、この八甲田山行軍事件の話になり、「実は私のじいさんが、このときの生き残りです」とおっしゃいました。連隊の中には岩手県民も多かったそうですが、この「おじいさん」は水沢の農家出身でした。その話を聞いたときは、奇跡的な生還にただ驚くばかりでしたが、後に、生還者の殆どが凍傷のため手足の切断を余儀なくされていたことを知りました。このときの気候は、「未曾有のシベリア寒気団により、各地で日本の観測市場における最低記録となった」とされています。

この八甲田山の悲劇の経緯は、史実をもとにした新田次郎の小説「八甲田山 死の彷徨」と、それを原作とした映画「八甲田山」によって、広く世に知られました。ときに前も見えないような猛吹雪の日、「まるで八甲田山??」と思う日もありますが、すぐにその失礼な連想は打ち消します。

零下10〜20°Cの深い雪山を、冬山の装備もなく雪に降りこめられて10日近くもさまよった人たちの恐怖や絶望は、たった数分の”ホワイトアウト”状にも怯んでしまうわたしの想像に余りあります。

20年以上も前の話ですが、青森市を訪れてバスに乗車中、まさにその路線が「八甲田山の行軍の経路」なのだと人から教わったことがあります。市内のそちこちに、行軍で亡くなった人たちの軌跡を記す標識があるとのことで、改めて、やはり青森では広く知られ、悼まれている事件なのだと知りました。

現代のように、刻々と変化を知らせる天気予報や避難情報があってさえ、人は「自分は大丈夫」と思いがちです。大きな自然災害の中には、”人知を超える”ものがあり、人は「自然を畏怖する」ことを忘れてはならないと常々感じます。

あと1週間で節分、その翌日は立春です。ことばだけでも「春」となれば、あたたかなイメージのものやことが次々思い浮かびます。節分の豆や恵方巻きを味わい、立春にはお雛様を飾る家も多いことでしょう。今はまだまだ、白い景色の中で華やかなものを思う日です。